努力とか苦労って必要十分条件じゃない
こんにちは!
今日は、春休みから始まったゼミの最後の日。
週7の死ぬほどきつかった日々を乗り越えて今があるといっても過言じゃないくらい、自分の中で占める比重が大きいです。
今までしたためていたやつをゼミの時間に言おうと思います。
今日はその時にも感じた「苦労すれば報われる」という過大評価について。
”どうも日本人というのは、苦しい思いやつらい思いをするとその分成長すると思ってる人が多い。実際にはそんなことはない。何事にも適度な負荷というのはあって、それを超えたら壊れるのは当たり前。”
”僕は、この「苦労は尊い、若いうちに苦労することは意味がある」という主張には真っ向から反対したい。僕は「苦労」は過大評価されていると思っている。苦労なんてしないほうがいいに決まっている。避けられるなら避けられたほうがいい。”
苦労の重要さはものすごくわかるし、苦労をしようとしないと次に進むことができないのは、今まで21年間生きてきてすごく思う。だけど、苦労してもできないことがあったし、どうにもならないことって結構ある。そういうのをなくして「ただ苦労すれば報われる」っていう、成功体験を意識しすぎて、「どう苦労するのか」を疎かにしているような気がします。そして、「苦労しても出来ないことがある」ということも認めないといけないように感じます。
自分もゼミですごい感じました。使えない努力はそのときは全く意味がないと。
進んでいく方向が見えているのにそこではないところで余計な努力をしていました。つまり、努力の方向性を間違えていた。
当時は、自分のできることが全然わからなくて、闇雲にパワポを見やすいように改変したり、自分の言葉で理解しようと、毎日そんなことばかりに尽力していました。でも、一番やるべき努力は、どうしたらもっと建設的な意見を出そうとするとか、もっと早く理解して他の人にわかりやすく伝えるっていうことをしなければならなかった。目的を履き違えていたんです。ゼミでの目的は、「議論して話を前に進める」ということ。自分はそのことをしていなかった。違う努力をしていた。今だからこそわかることだけど。
もちろん結果としてこれのほとんどは使われることはありませんでした。でも「努力はした」ということだけは残ります。確かにゆくゆくもしかしたら使うことがあって自分の糧にはなるかもしれないけど、見えない先のことに担保して努力が間違っていたことを正当化して「とりあえず努力をした」とカテゴライズしてしまうのはやっぱりダメなことじゃないかなーと思います。
それに『努力』という概念に固執していると自分に甘えが生まれてしまう。最初は方向を間違えることがあるけど、努力の方向性をしっかり確認しつつ進んでいくほうが効率がいい。
努力や苦労は必要ではあるんだけど、十分条件ではないし、もしかして苦労の方向を間違えていたら必要条件でもないかもしれない。自分はまだまだ苦労を知らないからこそこういうことが言えるんだけど、簡単に「苦労したから」できるようになるっていう甘い考えは持たないようにしたいなーと思った。苦労するからと言って、成功に結びつくとは限らない
苦労は、「何を目的に」っていうのを意識してから買いたいと思います。
人間は色々なバイアスがかかった状態で世界を認識している。それを解き明かすのが知覚・認知心理学なんだけど、精神分析などに比べると地味なのかもしれない。しかし、錯視・錯覚に関する研究はわれわれ自身のこころのあり方を如実に浮かび上がらせるので、とても面白いし重要だと思う。
— qigong_wsさん (@qigong_ws) 1月 21, 2013