自分の「平凡」にまつわる話
”圧倒的に「平凡な」人のほうがこの世界には多いし、その平凡さから目を背けたら、多分何かが死ぬ。だってあなたは平凡だから。”
結構前に紹介した、「18歳から22歳までの4年間でかろうじてわたしが学んだこと」で書いてあった一言。
”すごい人と会う、すごい人と話す、のはとても幸せだ。恍惚感すらある。尊敬できる人に出会えるのはとてもいいことだし、たくさんの人の話を聞いて、できるなら話して、どんどんいろんなことを吸収したらいいと思う。ただ、「誰々に会った自分」というアイデンティティにしちゃいけない。
「普通の同級生には興味ありません、すごい人と友達になりたいんです」というなにかのラノベに出てきたような台詞を、明言しないにしても感じている人は(別に新入生だけじゃなくて)わりと多いのかもしれないのかもしれない。でも、圧倒的に「平凡な」人の方がこの世界には多いし、その平凡さから目を背けたら、多分何かが死ぬ。だってあなたは平凡だから。
「考えさせられました」「刺激になりました」という言葉を簡単に使うのはあんまりよくないと思う。それで片付けちゃだめだ。刺激や変化を外側に求めるのは大事だけど、外側に“だけ”求めてちゃつまらなくなるし、いろいろ見失う。”
「平凡」って本当に奥が深い。
やっぱり生まれてきた以上、なにかしらこの世に残したいし、人と違う人生を生きたいと思う。この「人とは違う」っていうところがなかなか難しい。だから、『自分はほかの人とはちがう非凡な人なんだ!』と見せるためにいろんな方法があるけど、いまいちうまくいかないのも事実。
本当に周りにすごい人が多いです。語学留学して最近帰ってきた人、ファシリテートが上手で人から意見を聞き出しやすい人、人生経験豊富な人…。こういう人達に囲まれて生活できてる自分は幸せだなーって思います。
でも、そういう人たちを自分の評価を上げるツールに使ってしまう人をよく見かけます。『自分はこういう人間なんだ!』っていうアイデンティティを示さないとと思って、
「わたしの知り合いで、○○してるひとがいて、…!!(すごくない?)」とかあります。
よく考えてみると(よく考えなくても)、すごいのはその人であって、それを紹介している自分ではない。なんか勘違いしてるなって説明会に行って自慢げに話している人を見ながら、ぽつんと思っています。
日本って多民族じゃないから周りが同じ日本人ばっか。だから、別に特にしなくても大丈夫な雰囲気があるような気がします。もちろん、日本は大好きですが、そういう集団で動くことに慣れてるところはこれからのグローバル社会においてそろそろ致命的になるんじゃないかと思います。自分が集団行動をすると、誰かに任せてしまいがちになるので苦手なんですけど、自分の意見を持つことの重要さを感じています。(このブログをやっていることだって、意見をもつための練習の一種。)
ここからが自分の話。
「あなたって平凡だよね。」
って言われるとなかなかきつい言葉。
前までは、本当に平凡だとか普通って言葉が嫌いというか避けていて、どうにか自分を大きく見せようとごまかしてた節がありました。自分は平凡って奥底ではわかってる。だけど、なかなかその「平凡」に含まれるネガティブなイメージを自分に当てはめるのが怖くて、背けてしまうというか、その言葉から逃げようとしてしまっていました。
これが今のプロフィールなんですけど、上に書いたように、前までは「普通」とか「平凡」であることがいやでいやでしょうがなかったです。「普通、平凡=つまんない」っていうのが確固としてあって、どうにかそうならないように何か他の人とは違う所、違うことをしようといろいろあくせくしていました。
(普通=平凡と捉えています、ここでは。)
でも、「何者」を読んだり、他者分析をしてもらって、【自分は凡人】だっていうのを完全に肯定されて、どんなに普通じゃないようなことをしようと、結局自分は「普通」ということ。変わらない事実を胸元に突きつけられ、グサーッとやられました。
確かに普通にならないようにやったことの中には、今でも自分に残っていることや、今も取り入れていること(例えば、服には必ず原色を入れるようにしているだとか)も少なからずあるけど。
自分を大きく見せたところで自分は自分なわけで、ないものねだりをしたところでかわらないなって実感しました。それなら、「自分の器に合ったやり方でやったらいい」っていうのを本当に実感して、なんだろう…吹っ切れたのが今です。受け入れたというか、普通じゃない非凡な人になるのを諦めたというか。
最近は、自分を普通だと認めることができたからこそ、他の人はどうすごいのかとか、いかに日常の中から普通とは違うことを発見できるかみたいな、毎日とてもフラットに物をみているような感覚があります。
岡田育さんが前に「私は普通の人間です」ってプロフィールに書いていて、その当時は「何で普通って書くの…?普通じゃないほうがいいでしょ。」って思ってたんですけど、なんかいろいろ吹っ切れてからは何となくその真意がわかったような気がします。なので、使わせてもらっています笑
自分が思うスゴイ人にもこの人すごいなーって思うスゴイ人がいて。
その人にもこの人凄いなーって思うスゴイ人がいて。…。きりがないし、上ばっかみたところで変わらないなって思いました。
平凡だから無から有をつくることなんてできない。それなら、あるものでそれを使いこなそうとしたり、あるものをより良くしようとしたりすることぐらいだったらできるんじゃないかと。平凡だからじゃあその中で自分が何ができるかなって考えて動くのが一番理に適ってるかな。自分のできることをやってればいつの間にか変わってくんじゃないかななって楽天的に空想してます。
自分は平凡だって理解するけど、平凡だからってあきらめてそこで終わるようなつまらない人生を過ごしたくはないです。あくまで、過剰な期待をしないこと。それを意識して生活していきたいです。
>P.S. 実はこの記事は昔書いたのを改変して書きなおしたもので、大体おんなじようなことを言っているんだけど、そのときはやっぱりわかってなかったんだなーと実感しました。
津田マガ63読んで思ったんだけど、「どこかに先行事例はあるのか?」って思考自体が日本の後進性の表れだよな
— 警備員2号 (@neet_union) February 13, 2013