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人生、いつだってミーハーじゃなきゃ。

ちょっと人と違うことを意識的にしてみる、ということ。

おはようございます!

夜行バスで東京にやってきました。

 

この前、オードリーのラジオ番組の文字起こしをしているサイト

(オードリーのANN トーク集 | 世界は数字で出来ている 

にばったり出会って、そこで見た若林の『人を見る目』が鋭くて、「この人頭いいなー」って思ってました。それにシュールで面白い。ラジオで聞きたいところだけど、どこで聞けるんだろう…?

 

オードリー・若林「評論家きどりばかりのツイッター」 | 世界は数字で出来ている

若林「なんか、上に立ちたがる奴が多いなぁって思って」

春日「あぁ、はいはい」

若林「世の中。もう、ずっとそうですよ。ぶってる写真展のときから」

春日「うん(笑)」

若林「何かと、上に立ってツイッターとかやりたがるんだなぁって思って」

春日「うん」

若林「現象として不思議だから、なんでなのか知りたかったの」 

ーーーー

若林「みんなツッコミに回りたがる、と」

春日「うん」

若林「たとえば、そういうことは書いてなかったけど、ハロウィンで仮装をしてかぼちゃの格好とかをする奴をツッコむじゃない?(笑)やっぱり」

春日「うん」

若林「それで、ツッコまれると分かって、ボケ側に回らないっていうのよ。みんな」

春日「あぁ」

若林「何もしない奴が勝ちってことになっちゃうじゃん」

春日「なるほどね」

若林「サブカルとかを馬鹿にする奴らも、『自分はそうじゃないけど、アイツらビレッジバンガードなんか行っちゃってさ』って思ってる。究極、ツッコミに回りたかったら、趣味を持たない、しかないのよ」

春日「恐ろしいヤツだよね」

若林「色々、番組のことなんかも書いてあって、それが凄い面白くって。たしかに、って思ったのが、誰か一人イジれるやつを見つけて、そいつを全員でガーッてイジるって構造が多い、みたいな」

春日「うん、うん」

ーーーー

若林「っていうことをスゴイ考えて。サブカルとかをイジったりする奴らいるでしょ?世の中に」

春日「うん」

若林「この間のハロウィンですよ。渋谷で仮装している女の子とかいっぱいいて。アメを配ってて。俺、TSUTAYAに本を買いに行ったとき、アメをもらっちゃいましたよ。帽子を深くかぶって」

春日「街の子に?(笑)」

若林「カゴにいっぱい入ったアメかチョコを。大学生っぽい人が」

春日「トリック・オア・トリートって?」

若林「それを自分はやらないで、ツッコむわけですよ。自分はやらないでさ。上に立ちたい奴らが。『ベタだなぁ』って言って」

春日「うん」

若林「古いよ」

春日「もう、そういう時代じゃない?」

若林「もう、古いと思うよ。そればっかりじゃない。ここ2~3年。もう、やんなきゃいけないのかなぁって思って。そういうことを」


みたいなことをつらつらと毎週話していて、とっても面白いなあーと。しっとりと考えてる感じがすごい共感できる。

ツッコミする側ってすごい楽だし、そっち側に行くことで自分はさも上にいるかのように勘違いしてしまう。でも、やっぱりすごいことをする人ってボケ側にいる人のような気がします。なんか動いてる。周りからの「やめたほうがいいよ」って言う声を聞きながらも前に向かって動いている。すごいなあーって感心してしまいます。

(違うことをを「すごいだろ?」ってドヤ顔で自慢した顔で言ってくる人は話は別だけど)ちょっと人と違うことを、意識的にしてみることって結構大切なことなのかも、と思いました。謙虚に。

 

ドッカーンてみんなが誰もやってないようなことじゃなくて、やってる人がいるかもしれないけど、あんまりやってる人がいないようなこと。そんくらい気張らない感じがいいのかなと思います。

今考えているのが「歩く」こと。っていうのも、チャリがいつの間にかパンクしていたからなんですが。歩いていると、なぜかすっごい頭のなかがグルグルし始めて、アイデアとかがバーっと出てくるんです。チャリに乗っている時には感じなかったこと。効率化を求める時代に、逆行することは少し怖いけど、ちょっと続けてみようかなと思います。その時は必ずiPhoneを持って行って、何か思い浮かんだ時はメモするように癖つけてます。あとで見返すと「なんだこれ…」ってなるものもあるけど、それ含めいつかは役に立つのかなーと思ってゆるゆるやっています。

 

他にもはてブに入れているやつを貼っておきます。
個人的におすすめなのは、「他人をどうしても怒らせてしまう人」かな。

オードリー若林が語る「Twitterによる弊害」 | 世界は数字で出来ている

オードリー若林「タモリさんとゴルフに行く」 | 世界は数字で出来ている

オードリー・若林「他人をどうしても怒らせてしまう人」 | 世界は数字で出来ている

 若林「高1くらいかな。ゲーセンでメダルがいっぱい出て。それで店員さんに預けられるじゃないですか。『これ、預けるんで』って言って、店員にグーで殴られたことがありますからね。『顔がムカツク』って言われて」

 

 

ラジオって、声は聞こえるんだけど顔は見えないから、想像しなきゃいけないところがすごい楽しくて、高校の時は逃避的にSCHOOL OF LOCK!とか聞いてたなあ。笑ってる声とか、見えないくせにすっごいたのしかったのを覚えています。それに大体1発勝負じゃないですか。流れは一応あるけど、ゆるく流れる感じ。あれもすごい好きでした。

Podcastで調べたんだけど、なぜか、なかった。どうしよう…。

 

「明日」にだまされるな

「明日から」っていう言葉は都合のいい魔法のことばだなあと。

誰もがおなじように明日を迎えるのに、「明日から●●しよう」って言ったら、その明日がまるで今の現在から切り離されたように特別な一日としてみなすことができる。

 

場所が変われば、日にちが変わればできる ”はず”。

自分を違うところに連れてく(ように妄想する)のはいいけど、行ったからってその前と今の自分は変わらない。そこで自分が何をするか、動くか次第。

場所、時間はあくまでフォロー的存在ぐらいにしないと依存してしまう。

 

自分もよく感じるし、今も感じているからこうやって書いているんですが、

今、意志力について書かれた『スタンフォードの自分を変える教室』を読んでいて、少し関係ないんですけど、そこに面白い事例が載っていました。

スタンフォードの自分を変える教室

スタンフォードの自分を変える教室

”イェール大学の研究者たちは学生に脂肪ゼロのヨーグルトと 〈ミセス・フィールズ〉のクッキーのどちらかを選ばせました。次の習の実験でも同じふたつの選択肢から選べると聞いた場合、83%の学生はクッキーを選びました。これに対し、お菓子が出てくると実験は1回限りだと思っていた学生の場合、クッキーを選んだのは57%でした。”

 

”意志力のチャレンジに取り組みながら、それに関する決断をする時、「あとで取り返せばいい」という思いがアタマをよぎることはありますか?「今日はダメでも明日挽回すれば大丈夫」と自分に言い聞かせることはありますか?自分でやるといったことをちゃんとやったでしょうか?それともまた、「今日は楽しんじゃうけど、明日こそちゃんとやろう」の繰り返しだったのでしょうか?

人には先のことを楽観視してしまうせいで、やるべきことがあっても後でやろうと思うだけでなく、あとになれば簡単にできると思いがちです。心理学者の研究によって、私たちは、今日よりもあとのほうが自由な時間があるはずだという、間違った予想をすることがわかりました。” (太字は自分がつけました)

 

これは当てはまる節がいくつもある…!って読みながら思いました。

明日っていう自分にとっての都合のいいことばを使うことによって、明日の自分に対していわば「タスクの借金」をしている状態に簡単にすることができます。でも、逆に簡単に明日に借金できるからこそ、「まあできるやろ!」みたいな甘い誘惑が誘ってきて、で、「また明日」「そのまた明日」ってなってしまうなーと…。

 

”人には「明日はもっとできる」と考える習性がある”

うーん、確かに…。

 

これに対して、何をすればいいのか、どう対処していけば、弱い自分に勝てるように努力できるかということも書かれていました。

 

”ある行動を変えたい場合、その行動自体を変えるのではなく、日によってばらつきが出ないように注意する”

つまり、「明日も同じ行動をする」と考えることが必要なんだと。 言い換えると、やらなかったらまた明日も同じ行動をする、ということ。

今日やらなかったら、また明日もやらない。また次の日も…という風に。

 

じゃあ、いつやるの?今でしょ。(なぜか最近流行りのw)

今までのようにずっとこうやって先延ばしにして、あとでツケが回ってきてもいいか考える必要があります。

(個人的にこの言葉は、生き急ぐようであんまり好きじゃないんですけど、この場合はこの言葉がしっくりくるので。)

 

あとは、何で自分がそれをしたいのか、っていう「なぜ?」っていう意識を持つことも大切だと書かれていました。

 

「明日までに宿題やらなきゃいけないんだけど、明日でいいか」は、何でやらなきゃいけないからって言うと、やらないとテストの単位落とすから、とか先生に当てられるから、とかマイナス面からでもプラス面からでもそういう理由があってこそのやらなければらないことなはず。目的意識を持つことって大事。

 

最後に。

もちろん【明日の自分】に任せることは楽なんだけど、明日の自分だって、今日の自分と打って変わってガラリと変わるわけはないはずで。寝たらまさかのスーパーマンになってました、っていうのはあり得ない。

 

自分は今日やらなければ絶対に明日もやらない、と考えてこれから少しずつ変えていかなければならないと感じました。特に自分は時間の使い方がとても下手なのでそこら辺も意識して意志力をつけたいなーと思います。

いっつも締め切りギリギリなので…。

 

「100円玉をどこでもいいので捨ててきてください」から生まれる物語

”「100円玉をどこでもいいので捨ててきてください。よろしくお願いします。」”

 

これを言われたら、自分ならどうするだろう…ってずっと考えていました昨日は。

自分だったらこうするだろうな〜、ああするだろうな〜。そんなことを考えながら、100円玉だったらこうやって捨てるかな、とか、いやもし50円玉だったらどうだろう…なんてあれこれ考えていました。

(結局捨てられず、ビビリだっていうことがわかっただけ)

 

そもそも、何でこれを思ったかって言うと、この記事を読んだから。↓

物語ってなあに? - y m d t k c

 

 スススーっと読んだ時には、「100円の価値って、意外と捨てるときになってみないとわからないものだよな。実は自分は物事の価値っていうのを分かっていないのかもしれないなー」なんて思っていました。

でも、しっかり読んでみたら、そういうことだったのか…!ってすごい感心してしまいました。

 

”冒頭にも書いたように、この実験って、これまで僕たちが持ってきた価値観を、別の新しい価値観の登場によって揺るがされたときにどういった感情に陥るのかを確かめるためだった。ちょっぴり極端な形ではあるものの。まあつまりは、これまで当たり前のように持っていた「お金は貴重なもの」という価値観に対して、”お金を捨ててください”という指示により「お金は捨ててもいいもの」というまた別の新しい価値観を一時的に突きつけたわけです。当然のことだけど、新しい価値観なんてすぐには受け入れられない。とくに今回の提示した価値観は、これまでずっとずっと持ち続けてきた価値観を放棄させるものだった。結果、ものすごくみんなを思い悩ませることとなったんだけども…。

で、みんながこの葛藤をどう乗り越えたのか。もう一度、捨てた場所とその理由を見返してみるといい。……どう? 見直してみた?(ほんと?) そう、みんなは自分なりに理由付けをした。自分の行為に対して、いろんな(そして勝手な)理屈をつけた。池に投げる気持ちよさと引換にするなら、次にそれを拾うひとが喜んでくれるなら、困っているひとがちょっとでも助かるのであれば… といった具合にね。そんなふうになるなんて決まってもないのに。

これが物語なのかな、そう僕は感じた。新しい価値観を受け入れるには、これまでの価値観を捨てる、あるいは無視しなくちゃいけなくて、でもそんなことなんてできなくて。だけどそれに見合う自分なりの物語を持ちこむという方法で新しい価値観を自分のもとに引き寄せてみることならできる。

 

つまり、「貯めておく貴重なもの」という昔から持っていた価値観から「捨てるくらいのもの」という価値観に一瞬で変えようとすると、それに見合う自分なりの”物語”を持ち込むことでしか自分を納得させられない、ということ。

 

たくさんの100円玉を捨てるエピソードから、普通は貯めるものを捨てるものに変化させた時に起こる心情の変化と行動をかいま見れたのがとても面白かった。そりゃああたふたするよね。普通じゃ考えられないし。確認しながらもそれが現実に起きていることをなかなか信じられないから、物語にすることでそれらを繋げて自分を納得させてる。

 

人はストーリーを好む。
それはたぶん、繋がらないものをひとつのものとして成り立たせるからなんじゃないかなーって思う。離れているものと、離れているものをひとつのものにくっつけられると、なんかよくわかんないけどそれがあたかも存在しているかのように感じられるし、そうするほうがスーっと入ってこれる。

 

そう考えると、人間って都合の良いようにできているよなー。自分の今の価値観ではわからない、理解できないことを物語に落としこむことで、それを存在させることができる。そうやってたくさんの物語をたくさん積み重ねることで、いつの間にか物語が物語じゃなくなることもあるんだろうな。そうやって常識が常識じゃなくなることもあるんだろうな。

もしかしたら、「お金を捨てるもの」っていう物語をずっと続けていたらいつの間にかそれが当たり前になっちゃって、「お金を捨てない」ために物語をつくる、なんてことになったり。

 

「お前話飛びまくって今何言ってるかわかんねーよ!」とよく言われるけど、あれはあれで自分の中ではつながっているんだよ、みたいな感覚なのかな。何事も頭のなかではつながっている。

 

つながっていないものでも、物語としてつなげてしまうと、それが存在してしまうこともある。 

(久しぶりに何を言いたいんだかわからない文章になってしまった…。)

 

「ほんとにそうなの…?」ぐらいに疑うくらいがちょうどいい。

おはようございます!

 

顧客は本当になってほしいことよりも理想のことをいう傾向にあるから、それをそっくり鵜呑みにしても、役に立たないこともあるということ。

これが本当かは置いといて、こういう「自分と直接関係ないと感じると、理想が自分の意見になってしまうということ」って確かにあるような気がする。心理学者とかじゃないから、ただ統計をとったとしてもこれが消費者の本心を示しているかなんてわからない。いや、むしろこういうアンケートだからこそ盛っちゃわないかな…?みたいなことすらあるような気もします。それに、毎日、毎時間人の考えなんてコロコロ変わるから、難しいなーっていつも思うけど。

 

本当に欲しいものって、たぶん時間をかければ出てくるはずだけど、街頭インタビューとかされたときに、普通だったらいつもそんなこと考えている人なんていないから、「こんなこと考えている…よな?」っていうことをよく言ってしまう、と思う。だから、どうしても本心と理想との乖離があるような気がします。

(例えば、「あなたの好きなものは何?」って聞かれると、「えーっと…。」ってなる感じ、あんなイメージだと思います。おいしいものとか好きなものを食べている時にはわかってるし、覚えてるんだけど、急にそういう質問されるとなんだっけ…ってなっちゃうやつ)

 

消費者は目先のことを考えるフシがあるから、どうしてもずーーーっと続ける店側のことではなく、あくまで自分のなってほしい姿しかイメージできない。

「なるかどうかはわからないけど、なったら嬉しいな」っていうふわふわした理想で話すしかなくなってしまうっていうのもしょうがないのかもしれない。

『じゃあ、どうするの?』っていうところまで考えられる人なら話は別だけど(そうなりたい)、アンケートでそこまで親身になれるか?って言われると、たぶんムリ。。

 

統計学が最強の学問である

統計学が最強の学問である

”心理統計家たちは質問文を自分の思いつきだけで作るようなことはしない。あらかじめ「仕事にやりがいを感じている人」と「そうでない人」にインタビューして、彼らがどのようなことばで「やりがい」のことを表現するか確認したり。先行研究でどのような理論が提唱されているかを調べたり、同様な心理学的な調査が国内外でなされたことがなかったかを調べたりしてはじめて質問紙は作られる。

そしてそうやって作られた質問紙は、ふつう本番の調査の前にプレテストにかけられる。微妙に表現を変えたいくつもの質問項目を、数十名程度の人間に回答してもらうのだ。その結果、例えばほぼ全員「Yes」と答えるだとか、無回答者が多いといった、役立たずの質問項目は削除する。

次に因子分析の結果と照らしあわせて、事前に想定していた因子の構造となるように、複数の因子と相関を持つ項目や、どの因子とも相関しなかったような項目は削除する。”

 

まだ、いろいろ詳しく書いてあるけど、結局これを引用して言いたいのは、
人はすごいあやふやだから無闇やたらに信じないほうがいい』ってこと。
「信じるな!!」っていうわけじゃないけど、「ほんとにそうかな…?」ぐらいには疑う心は必要な気がします。

 

 信じ過ぎると、どうしてもそれが叶わなかったときに「失望」という形でドッカーンって降り掛かってきます。それって、両方ともいやだし、いいことない。

 だから、それ以前の段階で「それで本当にわかってもらえるのかな…?」とか「理解できているのかな…?」みたいな、【疑いリテラシー】なんてものを身につけられると、時々楽になるのかなーなんて思います。

 

相変わらず、こうやって書き晒している

200日連続更新も超え、経ってから早くも1ヶ月が経とうかとしています。(正確には224日)

このブログにしてからも50日を超えました。

 

何でこんなに「書くこと」がすきなのか、ちょっとここらへんで振り返りたいと思います。現在時点で平均1500文字くらいだとしても合計すると…

33万6000文字】!!気持ち悪い!!

 

でも、なんかすごいなーなんて。ただ毎日書きたいことを書いているだけだけど、積もりに積もると、いつの間にか大きい数になっている…。

 

それに、いつしか見てくれる人が増えてとっても嬉しいです。最初の頃はまったく見てくれなかったこのブログもちょこちょこ増えてくれて、やっと読者を意識し始めたというか、なんか自己完結しないようになりました。

なんか考えるきっかけになってほしいなーとか、あれこれ考えるのも楽しい。毎日何かしら考えてるから、それをアウトプットとして出す機会がある、というのもなかなかいいものです。140字に収めてたら、吐き出したいものも出せないでしょ。

 

最近は、手書きで書くことが増えました。前までは、PCで書いていてクラウドに保存…とかしていたんですけど、どんどんローカルになっているような気がします。

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と、言うのも

①「フリクションボールペン」が大好きすぎて、
②それで書くと字がうまく書けるような気がする、っていう単純な理由と…

③手書きのほうが「なんか理解出来る部分が多い」っていうのが大きいから。

(自分の字を褒められると、すごい嬉しいっていうのもある。笑)

 

 そう言えば、前から何かをまとめるだとか書くことはすごい好きで、高校生の時、テスト前とかちっこい無印のノートにちっちゃい字でまとめてた。たぶんあれは「まとめる」ことが目的だったから別にあれが使えるかどうとかじゃなかったような気がするけど、あれはとても楽しかったのを覚えてる。

 

 ーーーーー

書くことのメリットとして、やっぱり挙げたいのが『(自分の)考えを見える化できる』ってこと。前までは「すごい、すごい!」で終わってたのが、最近は何がすごいかを説明できるようになった(と思ってる)。どこがすごいかがやっぱり知りたいところだと思うし、そこを言語化して見えるようにして吐き出せるっていうのは、強みになるのかなーって思う。

 

あ、あとは『 頭の中の整理ができて、それを残しておける』こと、いわゆる何かにストックしておけるということも大きいかも。言ってるだけだと、何言ったのか残せないまま。でも、できるだけ何かに残しておきたいって思うし(さっきの考えを見える化する、とおんなじようなことだけど)、言われたままのグルグルの状態じゃ理解できないからそれを自分なりにアレンジして理解する、っていうのも書くことのメリットだと思う。

 

ここからは書くことというか、何で「ブログ」に書き晒しているのかということについて。

それは、『見てくれる相手を意識できる』っていうのがメリットがあるから。そりゃあ、最初は誰も見てくれないんだけど、1人でもチラッと覗き見てくれる人がいると思うと(仮にも開かれたパブリックなものとしてブログはあるわけで)、ちょっと書くことに責任を持とうと思うし、見る人を意識するいい機会にもなる。

良い意味でも悪い意味でも。「書いて出す」ってことは、「コイツはこんな考えをしているのか」っていうのが否が応にもわかってしまうということ。だから、アホだな〜とか、おっ、すごいな!って思われるかどうかは見てくれる人次第だけど、できるだけわかってもらえるようなものを書きたいって思うから、最近は相手目線を意識して書くように心がけてます。

 

さっきも書いたけど、アホだな〜とか、おっ、すごいな!って思われるかどうかは見てくれる人次第。それにも負けず(ネガティブな意見は怖いけどさ)出し続ける度胸はついたといってもいいのかもしれないなー。

 

やっぱり、『自分を知ってほしい』っていう根底な欲求があるから。このブログは明確なテーマ設定がない分、「何をしている人」というのがイマイチ伝わりづらいものの、自分はこういう考えをしているんだよーっていうテーマに縛られることなく自由に書けるっていうのがいい。バックグラウンドとしての自分を会わなくても知ってもらえるというのは、とっても楽です。言葉に出すだけじゃ半径2mの人にしか伝わらないけど、書き晒すことによってもーーっと広いところにまで届くかもしれない。そういうのにワクワクする人にはうってつけかなと。ポートフォリオブログとして位置づけています今は。

 

書くことで得たものは大きいし、たぶんこれからも続けると思います。それだけ自分にとってブログという媒体の占める比重は思いの外大きい。

 

>P.S. つい昨日考えたブログタイトルの「▼△」には、2つ意味を込めていて、

①「▼(下がっても)△(上がる)」っていう”ミスっても切り替えてすぐに這い上がれる”
②「三角形が2つ合わさると、四角形ができる」ことから、”組み合わせることによって新たなものを作り出すことができる”っていうコラージュ的な要素

を、つけあわせたものとして考えています。